・内職を頑張ってできた
・ブログの更新を頑張った
今日はあまりできたことが少ない、、、、
そういう時は思考を切り替えて、内職すごく集中してできてすごい!ブログの更新怠らずできて偉い!何もできてないわけじゃない。二つも頑張ったことがあってすごいね!
自分をほめる自信を持つ、認める。とても難しいです。少しずつ頑張ろう。
積み重ねが大事
ではまた。
・内職を頑張ってできた
・ブログの更新を頑張った
今日はあまりできたことが少ない、、、、
そういう時は思考を切り替えて、内職すごく集中してできてすごい!ブログの更新怠らずできて偉い!何もできてないわけじゃない。二つも頑張ったことがあってすごいね!
自分をほめる自信を持つ、認める。とても難しいです。少しずつ頑張ろう。
積み重ねが大事
ではまた。
今回は私なりの考えを書いてみようと思います。
精神科に通うなかで私が一番大事だと思うことは、先生との信頼関係,相性だと思います。
すぐに築けるものではないけれど、何回か通って自分の気持ちや考えを話し、それに対して先生はどんな反応をするのか、アドバイスをくれるのか。
やり取りを繰り返し、この先生は私をわかってくれそう、言葉を信じられそう。と思えるかどうかが大切かなと思います。
人によっては、優しい先生がいい、はっきりと言ってくれる先生がいい、元気な先生がいい、静かな先生がいい。など話しやすいタイプが違うと思います。そこも自分の中で、どんな先生がいいのか、はっきりさせておくといいかもしれません。
病院や先生を変えることは悪いことではありません。いままでみてくれたのに申し訳ないな、、、、なんて思わなくていいと思います。
自分がいま抱えている気持や病気が少しでも良くなるほうへの選択として『変える」は大切な選択肢だと思います。
変えるときは一人で決めず、周りにいる人に相談してか決めるといいと思います。また違った意見も聞けるとおもうので。(私は相談とかめっちゃ苦手。笑汗)
転院三回目の病院は、自宅から車で30分位のところにありました。
この時期は朝起きてから深夜まで過食嘔吐を繰り返し、頭の中は常に食べ物の事で一杯でした。
164センチ34キロまで落ちていました
この病院では主治医が変わったりしたので、まずは一人目から書きます。
一人目の主治医も摂食障害や痩せすぎについては何も言われませんでした。少し怖い感じの先生で正直苦手でした。
私は、診察の時上手く喋れなかったので、困ってることなどノートに書いてそれを渡していました。
薬をもらい帰ってくるだけの通院が続きました。
私は本来おとなしい性格でしたが、性格が変わったように、常にイライラしていて毎日発狂し、母に大声で怒鳴り散らし、暴言を吐きまくっていました。
痩せすぎのため脳が委縮し正常な判断ができなくなったいました。
過食嘔吐の症状も酷く、寝る以外はほぼ詰めて吐いてをしていました。(不眠症ありゆっくり眠ることはできませんでした)
痩せすぎで体力もなく、毎日がしんどくて、具合が悪くてもう限界でした。
自分から入院を申し出ました。
入院して過食嘔吐ができない環境になったのは気持ちが楽でした。
でも、すぐ帰りたくなりました汗
言い訳をしますと、看護師さんが怖い冷たい(用事を頼むとしたうちor睨む)
変な人がたくさんいて怖い(精神病棟なのでしょうがないのですが、、、) 完全我がままです汗
だけど一番嫌だった事は、入院の目的や治療方針を一切教えてくれないです。今後どうしていくのか、わからないことが私はとても嫌でした。
ご飯を残しても何も言われず、ただ鍵のかかっ部屋に閉じ込められたいるようでした。
この入院も数日でリタイアしました。
退院後は相変わらず一日中過食嘔吐の日々を過ごしました。それが一年くらい続きました。
毎日「今日が最後。今日で絶対やめる。明日からはしない。」と思い、苦しい思いをしながら吐いてました。でも寝て起きれば頭の中は食べ物の事で一杯。結局辞められずにいました。
苦しい、死にたい、誰か助けてと思いながらそれでも死ねずに生きていました。
とある日、限界に達し処方された薬を全て飲みました。odです。そんな量では死ねるはずもなく、ろれつが回らなくなり、立っていられず、眠気と現実をぐるぐるしているような感覚でした。
夜間の救急に連れていかれました。胃洗浄などはせず様子見で帰ってきました。(ほとんど記憶がなく母の証言)
この時の先生が私にかかってみませんか。と言ってくださり、主治医を変更することにしました。
主治医からは「もう一生あなた診ません。」的なことを言われました、、、、、
二人目の主治医は優しく物静かな感じの先生でした。
相変わらずこの先生からも痩せすぎや、過食嘔吐の事は何も言われませんでした。でも前の先生よりも話しやすく言いたいことを伝えられるようにはなりました。
この後色々と問題が起きる(私が起こす)のですが、長くなるのでここでいったん区切りたいと思います。ではまた。
・お昼をおいしく食べられた
・消費者生活センターに詐欺の相談に行った
・母とお出かけした
今日は母もお休みで、一緒に出掛けて用事を済ませた来ました。お昼は丸亀製麺でおいしく食べられました。
私にとって食べるという行為は、不安や恐怖が付きまといます。未だに安心して食べられる食材は限られたいます、、、、、
今日は美味しく楽しく食べられて幸せでした。
相談にも行って頑張って話してこれたので偉い!今日も頑張りました!
卒業後、就活をしたりしました。落ちたり、過食嘔吐の衝動に勝てず出勤できず辞退したりしていました。
この辺りから自分は何か病気なのでは、、、と思うようになりました。
ある日の夜、母と二人でドライブに出かけその時食べて嘔吐していることをカミングアウトしました。
怒られるんじゃないか、幻滅されたらどうしよう。怖くてたまりませんでした。
母は「そっか辛かったね。気付いてあげられなくてごめんね」と言いました。
怒りもせず、私の体と心のことを心配してくれました。とてもホットしました。
私の母は理解を示してくれました。
それからは精神科に通うことになりました。田舎なので摂食障害を専門でみてくれる病院はありませんでしたが、ここから数年間いくつか病院を転々としました。
この頃は一日中過食嘔吐、食べられるものは野菜と鶏むね肉、白身魚、ほっけだけでした。 164センチ39キロでした。
一番初めの病院は山の上にある少し薄暗い病院でした。今までの症状を話し、摂食障害と診断されました。この時に中学の頃は拒食症だったと知りました。
通院をつつけましたが、過食嘔吐は酷くなる一方でした。そこで入院を勧められました。正直嫌でしたが、良くなりたい気持ちもあったのですることにしました。
結果は二日でリタイア。病院内は薄暗いし、食事も怖くて食べられずわがままを言って何とか無理やり退院しました。ですがやっぱり過食嘔吐の日々に戻りました。
親戚の方が他の病院を紹介してくれたのでそちらへ移りました。車で2時間ちょっとかかる所へ月一回通いました。付き添いで毎回母にも来てもらっていました、、、、
二つ目の病院は主治医はとても優しい人でしたが、摂食障害については、何も言ってくれませんでした。この時期私は164センチ38キロ位まで体重が落ちていました。いわゆる低体重の状態です。
苦しんでいるのに何も言ってくれない、低体重についても注意されない。通っていても意味がないと思うようになり、病院を変えることにしました。
遠すぎて通うのが大変ということもありました
三つ目の病院は家から車で30分位のところでした。
この病院では色々あったのでまた別に書きたいと思います。ではまた。
高校二年の秋、通信制へ転校しました。通信制は主にレポートを自宅でやり、それの提出とテストを受けるために月一回登校がありました。
なので自宅にいる時間がほとんどです。
私はもともと人と関わることが得意ではありませんでしたが、体形のことも気になってしまいすっかり引きこもりになってしまいました。
バイトもせず、遊びにも行かずただずっと家にいました。
普通科高校に通っていたころ、仲の良かった子も同じタイミングで転校し月に一回その子とは会っていました。
家では父が抗がん剤や治療のために仕事を長期休暇していつも一緒にいました。
といっても体調の良くない父は自室でほとんど休んでいました。
体調がいい日はドライブやショッピングに誘ってくれましたが、太った体を見られたくない私は全て断っていました。
父はどんどん体調が悪くなっていきました。私はだんだんと動けなくなる父をただ見ていることしかできませんでした。まだ動けた頃の誘いを全て断ってしまった事は今でも凄く後悔しています。
高校三年の冬父は寝たきりになりました。トイレも管、お風呂もは入ることができなくなり歯磨きも寝返りも介助でした。
周りは進路が決まりそれに向けて動いていましたが、私は色々落ち着くまで父のそばにいようと決めました。
この頃には母も介護休暇でずっと家にいました。
高校は無事何とか卒業することができました。それと同時に私は食べて吐く、過食嘔吐に陥りました。
初めのうちは普通の食事を吐くようになり、だんだんと大量に買い込んでは詰めて吐くようになりました。
家には両親がいつもいたので、ばれないように買い込んだものは自室に運び、みんなが寝静まったころ詰めて嘔吐していました。
父がもう長くないのに私の頭の中は過食嘔吐の事で一杯でした。私は最低な奴だ。私が死ねばいい。くずデブ消えろ!いつも申し訳なさと過食嘔吐の衝動に押しつぶされそうでした。
苦しい、誰か助けて、、、、ごめんなさい、そう思いながら詰めて嘔吐を繰り返しました。
高校を卒業した年の6月父はなくなりました。
父がいなくなった。という実感はなかなか飲み込めませんでした。いつもの時間に玄関から帰ってきそう。変な感じでした。
私の過食嘔吐は日に日に酷くなるばかりでした。
次回は卒業後の事と母へのカミングアウトについて書きたいと思います。
ではまた。
中学卒業後色々なストレスから解放され、今度は食べることが止まらなくなりました。
今思うとあれは、回復期に入り過食、制限していたことへの反動と理解できますが、当時はただブクブクと太っていく自分が嫌で怖くてたまりませんでした。
高校に入学、すぐに仲の良い友達ができました。いわゆるいつめんです。中学時代いつも一人だったので、とても嬉しかったです。みんなでお喋りしたり、遊びに行ったり買い食いをしたり、楽しい毎日でした。おかげで体形のことも気にならなくなっていました。
そんな楽しい毎日を過ごしていた高校一年の夏、父が癌になりました。盲腸の破裂で緊急手術を受け、その時に癌も見つかりました。
家の中の雰囲気も生活も大きく変わりました。父は入退院、抗ガン剤、手術を繰り返し母は、父にかかりきり。大学受験を控えていた姉のこともありました。家の中の雰囲気もどんより、みんながどこか無理をしている、不安定で居心地は正直不安な感じでした。学校での楽しい出来事を話す雰囲気でも、悩みを相談する雰囲気でもありませんでした。
父や姉のことを優先してほしい。の思いや、母にこれ以上負担をかけたくないの思い。私はどうしたらいいかわかりませんでした。
大きなストレス、悩みにぶつかったとき私の唯一の助けは「痩せ」でした。
ですが、回復期真っ最中の私はお世辞にも痩せてるとは言えませんでした。
するとどうでしょう。今まで気にならなかった体形についてとても気になるようになりました。
こんなに太っていて醜い。こんな姿をだれにも見られたくない。みんなきっと笑ってるに違いない。このように思うようになってしまい、学校に行くことができなくなりました。自分の中の不安悩みが解消できなくなりました。
仲の良かった友達とも徐々に疎遠になり、高校二年の秋、普通科では卒業が厳しくなり通信制へ転校しました。
摂食障害についてもっと知識があったら
回復期なんだと知れていたら
痩せに縋らず、誰かに相談する。助けを求める。
先生や友達をもっと頼る事があの時できていたら、、、、きっと今も大切な友達がそばにいただろう。もっと楽しい青春を送れていたかな。と今でも悔やんでいます。
高校編は転校編につずきます。ではまた。